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言い残していた

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 幼馴染のK君の追悼文を読むと、K君には、自分が居なくなることを言えていた。  那須君は、私にはそれを言えなくても、K君には言えるかもしれないとずっと思っていた。だから、K君がお見舞いに来てくれる時は、私はわざと用事で不在になるようにしていた。追悼文を読んで、 やはりK君と二人きりなら言っていたのだと知って、何だかホッとした。  亮君の追悼文で、Aさんは「那須君、自分が死ぬこと分かってへんのちゃうか」と怒ってはったけれど、彼は自分が、近く居なくなることは一応分かっていたのだと思う。ただ、そういう前提は良しとしなかったのだと思う。  亡くなる数日前の小康状態の時にも、「この居間に何人はいれるかな?ワシの話を聞きにきてもらお」と、微笑みながら、自分にできることを考えていた。  だから私は、那須くんがメールチェックできなくなった時に、デジタルパスワードを聞き出すのが やっとだった。大切なギターですら、どうしたらいいのか、言い残さなかった。    那須君は、何も言い残さず逝ってしまった、と最初は思っていたが、彼はずっとずっと同じことを言っていた。出会ってからの態度もずっと、同じだった。 それが、那須君が言い残したことだなと、今は思う。

なずなの時に

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 病を得てからは、那須君が死を口にすることはほとんどなかった。  少し先の未来のことも、話すことはなかった。  生きる前提だったのと、治療の苦しさでいっぱいだったのと、他に考えたいことがあったのと、考えても仕方がないのと、あと、どんな気持ちだったのだろう。  (再発前だったと思うが)いつだったか、「なずなよりは長生きせんといかんな」と言ったことがあった。なんだかそれも短い気がして、でも「そんな短いの」とも言えず、その時は「うん」としか答えられなかった。  でも亡くなる1ヶ月前に自宅療養になったあと、一度だけ未来に言及したことがあった。  彼は、なずなを撫でながら、「なずなが死ぬときに、(あーちゃんの)側にいてあげられなくてごめん」と泣いた。  唐突に言われたこともあり、その時の私は(え?謝るとこ、そこなん…?)と腑に落ちない気持ちもありつつ、そんなことで心配を掛けたくなくて「大丈夫…」とだけ言って、一緒になずなを撫でていた。  今日は彼の誕生日。

好きな音楽を交換

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   『ナッジ!?』でご一緒させていただいた橋本さんは、那須くんと音楽のやりとりもされていた。そしていまだに、「耕介さんが好きそうな音楽」を送ってくださったりもする。それを聴いてみると、(…確かに、好きそう!)と思うと同時に、そこに那須くんが居るように感じる。  おそらく、那須くんはまず『自分の好きな音楽(控えめ)』を送って、その音楽に対する橋本さんの感想から、橋本さんの好みを読み取って、どんどん『橋本さんと共有できるような音楽』を渡していったのだろうと思う。そういうことが好きで、得意な人だったと思う。  そう言う意味では、橋本さんはきっと私より、内面をよく分かり合っておられたのだろうと思う。  他にも、好きな音楽を交換?していたのは、行きつけの歯医者さん。友達の紹介で通うようになった医院だが、診察室に自分の好きな音楽をガンガン掛けながら治療される先生だと、愉快そうに言っていた。  次の診察の予約を取ったら、「先生に渡す、お勧めコレクションを作らなくっちゃ♪」と嬉しそうだった。ただ、橋本さんの時とは違って、歯科医の好みは、那須くんの得意でない分野のようで、わざわざその森に分け入っては、「これは どやっ」と言える音楽を必死で探していたフシがあった。それはそれで、楽しそうだった。  歯の治療中、音楽の話をしたいのに、椅子の上で、口を開けていなくてはならないのは、那須くんにとって拷問だっただろうな(笑)。  そういえば、ブライアンとも、たまに音楽のやりとりをしていたようだった。貴重なソウルメイト達に感謝。

アニメのパンフレット

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 ふたりで何度も観た映画。ナウシカは漫画も持っている。  他にも、『コナン』は、テレビ版をレンタルビデオ店で借りて、一緒に観た。とても愉快そうに、笑いながら観ていた。  おそらく彼は『コナン』で、理想の女の子はナウシカやサツキかな。落ち着いた声で、面倒見が良くて、がんばり屋さんの女の子。  さーちゃんは、メイやポニョが大好き。那須くんは、そんなさーちゃんが大好き。

研究室から持ちかえった本(6)

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   きっと、もっと、わかりやすく伝えたいことがあったのだろうな。

お父さんの字と表札

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   那須くんの字は、丸っとした癖字。学生達に、板書を笑われなかったかな、と思う。ワープロやパソコンがある時代で良かった。  お父さんは習字を習われたこともなく、この達筆。祖母の俳句を写して、捨てようとされた紙を、お母さんが確保されたもの。  私たちが結婚した時に、お父さんに表札を書いてもらった。 私の会社の大先輩が、その表札を見て、「私も書いてほしい!」と言われたので、お父さんに頼んだ。  数日後に、綺麗に書かれた表札を、お父さんから受け取ったが、「字が単純すぎて難しかった」と言われた。『西口』さんの表札、どうなったかな。  お父さんに書いてもらった『那須』の表札は、3回の引っ越しをしてもずっと玄関に掛けていたが、木が黒ずんできたので、宅配の人が読みにくくなってきた。  それで今は、さーちゃんの字で大きく『なす』と書いてもらって、好評である。お父さんの表札も、大切に残してある。

研究室から持ちかえった本(5)

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   この中では、『拷問全書』のことを聞いておけば良かったと思う。

朝日新聞の『折々のことば』に引用されました。

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 2025.10.3の朝刊に掲載された。 『社会と自分のあいだの難関』(SURE)は、2021年に講義形式の座談会を3回して、亡くなったあとに発刊された。    最後の座談会は、7月30日だった。その2日後、滋賀県草津市のホテルに、親族と草津教会の牧師夫妻が集まり、さーちゃんは一輪車の練習に没頭した。草津から帰って、力尽きたように在宅療養が始まったが、那須君はまだAmazonで、本やCDを買い続けていた。  そして、9月7日『白露』に、ふと亡くなったのが、とても彼らしい。    冒頭の写真は、朝日新聞をとっている義弟が、朝一番に送ってくれました。感謝。 編集グループSURE オンラインショップ↓ https://henshuugroup-sure.stores.jp/items/67089a609dfb0901fcd0b08d  

研究室から持ちかえった本(4)

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 那須くんは、自分も人も、社会の中でしんどくなく生きていくことを、ずっと考えていた気がする。しんどくなるのは何故だろう、と。  家族を含む誰かからの束縛、職業上の束縛、地域・国からの束縛、自由であるはずのサークル活動やボランティア活動での束縛…など、愛情や決まりごと、思い込み、「ねばならぬ」ことからの解放。    那須くんと暮らしてきて、思えば束縛されたことがない。 それが寂しくもあったけれど、心地良くもあった。

研究室から持ちかえった本(3)

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 福知山線の脱線事故については、摂南大学のゼミで何年も追いかけていた。いろんな広がりがあるテーマだと言っていた。  

研究室から持ちかえった本(2)

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  那須くんにとって、テツガクする動機として、自分の『家族』が一大 テーマだったが、後年、里子を迎えるにあたって、また違う立ち位置から『家族』を考える必要が出てきた。  『狼』も、彼を支えるキーワードだったと思う。

研究室から持ちかえった本(1)

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  『家族』というテーマは、誰にとっても多かれ少なかれ痛みを伴う、と 思う。  那須くんは、「親が子どもを殺すのは許されへん。でも子どもが親を殺すのは許される。親は殺されても仕方がない」と、ことあるごとに強く言っていた。  『反哲学的断章』には2カ所だけ付箋が貼ってあった。                  

研究室から持ちかえった本(付箋あり)

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 研究会でご一緒したり、仕事を一緒にしていた方の本には、特にたくさんの付箋が貼ってあった。    それはきっと、勉強熱心…というよりは、その人を理解して、会った時にたくさんおしゃべりしたくて、読み込んでいたのだろうなと思う。  特に、平野先生・亀本先生・服部先生の『法哲学』には、ほぼ毎ページに蛍光ペンで線が引いてあり、大きな付箋にメモがいくつも書いてあった。疑問形のメモが多いので、きっとこの本で『法哲学』の基礎を学んだのではないだろうか。3人の先輩方のことを尊敬し、それぞれ大好きだったと思う。  付箋のある本は、つい持って帰ってしまったが、私たちはおそらく一生読まない(読めない)。  これらの本を処分するなら、付箋を剥がさねばならないが、その作業はやりたくない。悩みの種だ。

オーディオ機器の近くに置いてあったCD

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那須くんは、新しいCDやレコードを手に入れたら、 プレーヤーの近くにとりあえず置いておいて、時間があったら聴いていた。 機器の前に立って、CDやレコードを丁寧にセットして、しばらく音量やスピーカーの調整をして、立ったままレコードジャケットを眺めたりして。 亡くなる前には、本と同様、CDを買う数が聴く数を上回り、次第に溢れていった。 (レコードは中古レコード屋さんで買ってくることが多く、通販で買うことは滅多になかったので、溢れたのはCDだった) メアリーブラックはコンサートにも何度か行った。 聴いていたものもあり、聴いていないものもあると思う。

机の周りに積んであった本(2)

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    勉強関連の本がほとんど。  抜き刷りは佐野 亘先生のもの。  『最初の一滴』は、『思想の科学研究会年報 第二号』 野口(良平)くんが載っているから、読みたかったのだと思う。 付箋がたくさんついた本もある。でも図書館の本なので返さなくては。 カバーがついた本も、図書館のものだった。

机の周りに積んであった本(1)

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   ようやく秋の空気になってきて、窓を開けて過ごせるようになった。  この本は、那須くんの机の周りにあった本の一部。  那須くんは病を得てからも、CDや本をどんどん増やしていた。  今までと違う興味の本も増えたし、これまでの流れ・広がりで選んでいた本もあるようだ。  彼が元気な頃は、手に入れた本はパラパラと見て、家で読むか、研究室に置いておくか、どんどん捌いて、部屋に本が積まれることはほとんどなかった。なので、私は彼がいつどんな本を買って読んでいたのか、分からなかった。  亡くなる半年前くらいから、机の上・横・足元に本がみるみる積み上がっていった。  その頃、月の半分は九州での治療に行っていたので、そこで読もうと思って手に入れたものの、しんどくて読めない本が部屋に積み上がっていったのだと思う。  バーリンの特集も読んで、自分の書いたものを振り返ろうとしていたのか。  読みたい本がある、と示していた。  ↑これは、カバーが掛けてあったので、読もうとしていた本。  ↑本の中にあったDVD。  1番目の写真の中で、↑これらは残しておこうと思う。 長谷川伸、アラン、ナット・ヘントフはたぶん好きだった。 黒川さんの本も。  那須くんが仕事で忙しい時は、「老後にゆっくり読むぞー」という『お楽しみ本』を買っておくことがあった。長谷川伸も、その一つかも。  残りは、大学図書館の本は返却して、他は京大の11月祭で売ってもらおうかと思っている。売れるかな…??

竹林の中の犬

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まだ高校生だったか、卒業してからだったか、 Y先生とその仲間達で、普段は住職のいないお寺へ遊びに行ったことがあった。 そのお寺は、近くのお寺の住職が時々様子を見られているとかで、 その住職さんから「筍を食べにきませんか?」とのお誘いだったように思う。 Y先生の一派には、ねずみ年のM先生がいるから、そういう誘いはすぐに実現する。 朱雀高校の(元)生徒も何人かいて、那須くんと私も(当時は親しくなかったが)声を掛けられて参加した。 お寺に到着してみると、傾斜地に竹林が広がっており、坂の上の方にお寺があった。 大人がわいわい話しているのに飽きて、それほど筍にこだわりのない若者は、竹林に散っていった。 すると、なぜか竹林の中に、木製の小屋に閉じ込められた大きな犬がいて、遠くからでも人を見るとワンワン吠えていた。 私は、当時は犬に興味もなかったので、(凶暴だから閉じ込められているのかな)くらいに思って、遠巻きに通り過ぎていった。 しばらくして、余計にギャンギャン吠えるので、振り向いてみると、那須くんが犬小屋に近づいていくところだった。犬は鉄製の柵から鼻を突き出して吠えている。 危ないよ…、思わず「大丈夫ー?」と声をかけると、「うん、大丈夫」と言って小屋の前でしゃがみ込む。膝を抱えるように座って犬を見ている。 私はその場を離れて、明るい陽が差す竹林の散歩を続けた。 しばらくして、お寺に戻ろうと来た道を歩いていると、犬小屋に近づいてきたのに犬が吠えない。 どうしたのかと犬小屋をみると、那須くんが柵の間から手を入れて、その犬をワシャワシャと撫でている。手なづけたのだ。 私が近づいていっても、その犬はもう吠えなかった。 「出して欲しいんだね」 「さみしかったね」 と、那須くんは犬に話しかけていた。

京大変人講座の一日

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  2017年春に精密検査をした結果、膵がんだと医師から告知された日が、『京大変人講座』の講演の日だった。 その日、午前中に京大病院の診察室で告知され、そのまま研究室で1人過ごし、午後に講演をした。盛況で、彼も満足気に見えた。 今まで、私が那須君の授業を見に行きたいと言っても、彼は「来たら当てるしな」と牽制していた。しかし『変人講座』は公開講座ということもあり、「見に来てもいい」とお許しが出たので、大勢の人前で話す彼を(ほぼ初めて)見に行った。 すると講演の最後に、唐突に、妻への感謝を述べた。何なんだ!と私は一人赤面したが、何かおかしい…と思った。那須君は人前でそんなことをする人ではない。 講演の後、軽い立食パーティーがあったが、私はお邪魔だろうと先に帰った。 2時間ほどしてか、帰宅した那須君にお疲れ様のお茶を入れて、いつものようにカウンターに並んで彼の話を聞いていた。 ひとしきり話した後、「ちょっと話があるんやけど」と こちらに向き直り、すぐに「ワシ、膵がんやった」と言った。 私は一瞬両手で顔を隠したが、私が泣いたらいけないので、すぐに彼の( 親指を握る癖がある)膝に置かれた拳を、上から覆うように両手で握って、ずっと下を向いていた。 講演最後の「妻への感謝」はこれだったか…と合点がいった。 彼は「ごめん、でも絶対負けない。治るから」と、いつも通りの穏やかさで明るく言ってくれた。 私は 「うん、そうだね」と無理矢理 笑って答えた。

長生きして

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  人は皆、生まれた時から死に向かっていると言うけれど、 那須君は死について、あるいは自分の死後について、ほとんど何も話さなかった。 ただ、まったく元気な頃に、親のお葬式やお墓について、二人で話していた時に、自分だったらどうして欲しい?と聞いてみたことがあった。 彼は「本当に、どうこうしたいということはない。残った人が好きにすれば良い」と即答していた。 「火事になったらこれだけ持って逃げる」と言って、常々大事にしていたギターですら、誰かに託したいという願望を持っていないようだった。   自分が物を大事にすることと、その物をいつか自分以外の人に託すこと(を考えること)は、 全く別のことなのだな、と思った。 那須君にとって大事なのは「今」であって、 先のこと、ましてや自分が居ない死後のことまで考えることは無駄、 残された人を縛って迷惑をかけたくない、とも言っていた。   そして、こんな会話もした。 美「どっちが長生きすると思う?」 耕「ワシは絶対長生きする!」 美「那須家は長生き筋やもんな。でも一人になったら寂しいで?」 耕「長生きしたら、嘘つきまくるんや!ふっふっふっ♪」  

どっと疲れた夜に聴くのは

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耕介は日々、様々な音楽を聴いていた。 トイレとお風呂場以外では、朝起きた時から 就寝時まで 必ず音楽をかけていた。   耕介はすぐに寝付くので、音楽をわざわざかけなくても…と密かに思っていたけれど、 毎晩、じっくり選んだ音楽を聴きながら寝ていた。 静かな曲ばかりではなく、よくこれで寝られるな、という音楽もあった。     そんなふうに長年過ごして気がついたこと。   耕介が言葉を尽くして説明しても、相手に通じなかったり、 なんでこの仕事をワシがするねん、という徒労感があったり、   そんな、どうしようもなく気持ちが疲れている夜は、 必ずと言って良いほど、『憂歌団』をかけていた。 高校時代によく憂歌団のライブに行っていたらしい。   憂歌団は、ライブの途中にメンバーがトイレに行って、 それをファンが野次るなど、 力の入らなさ、ファンとの近さが堪らないバンド。 長男の耕介には、「アニキ達の悪ふざけ」が痛快だったのだろう。     疲れている夜は、そんなアニキ達の曲が流れる。 あのダミ声で、♪いやんなった~♪と聞こえてくると (あぁ、今日はクタクタなんだな…)と私にも分かる。   そういえば、イヤイヤ頑張った仕事がようやく終わって、 もうどうでも良くなった夜にも憂歌団を聴いていた。   年に3回くらいか。 がんばるモードから、ふざけるモードに切り替わる スイッチみたいな音楽だったのかな、と思う。