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竹林の中の犬

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まだ高校生だったか、卒業してからだったか、 Y先生とその仲間達で、普段は住職のいないお寺へ遊びに行ったことがあった。 そのお寺は、近くのお寺の住職が時々様子を見られているとかで、 その住職さんから「筍を食べにきませんか?」とのお誘いだったように思う。 Y先生の一派には、ねずみ年のM先生がいるから、そういう誘いはすぐに実現する。 朱雀高校の(元)生徒も何人かいて、那須くんと私も(当時は親しくなかったが)声を掛けられて参加した。 お寺に到着してみると、傾斜地に竹林が広がっており、坂の上の方にお寺があった。 大人がわいわい話しているのに飽きて、それほど筍にこだわりのない若者は、竹林に散っていった。 すると、なぜか竹林の中に、木製の小屋に閉じ込められた大きな犬がいて、遠くからでも人を見るとワンワン吠えていた。 私は、当時は犬に興味もなかったので、(凶暴だから閉じ込められているのかな)くらいに思って、遠巻きに通り過ぎていった。 しばらくして、余計にギャンギャン吠えるので、振り向いてみると、那須くんが犬小屋に近づいていくところだった。犬は鉄製の柵から鼻を突き出して吠えている。 危ないよ…、思わず「大丈夫ー?」と声をかけると、「うん、大丈夫」と言って小屋の前でしゃがみ込む。膝を抱えるように座って犬を見ている。 私はその場を離れて、明るい陽が差す竹林の散歩を続けた。 しばらくして、お寺に戻ろうと来た道を歩いていると、犬小屋に近づいてきたのに犬が吠えない。 どうしたのかと犬小屋をみると、那須くんが柵の間から手を入れて、その犬をワシャワシャと撫でている。手なづけたのだ。 私が近づいていっても、その犬はもう吠えなかった。 「出して欲しいんだね」 「さみしかったね」 と、那須くんは犬に話しかけていた。

京大変人講座の一日

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  2017年春に精密検査をした結果、膵がんだと医師から告知された日が、『京大変人講座』の講演の日だった。 その日、午前中に京大病院の診察室で告知され、そのまま研究室で1人過ごし、午後に講演をした。盛況で、彼も満足気に見えた。 今まで、私が那須君の授業を見に行きたいと言っても、彼は「来たら当てるしな」と牽制していた。しかし『変人講座』は公開講座ということもあり、「見に来てもいい」とお許しが出たので、大勢の人前で話す彼を(ほぼ初めて)見に行った。 すると講演の最後に、唐突に、妻への感謝を述べた。何なんだ!と私は一人赤面したが、何かおかしい…と思った。那須君は人前でそんなことをする人ではない。 講演の後、軽い立食パーティーがあったが、私はお邪魔だろうと先に帰った。 2時間ほどしてか、帰宅した那須君にお疲れ様のお茶を入れて、いつものようにカウンターに並んで彼の話を聞いていた。 ひとしきり話した後、「ちょっと話があるんやけど」と こちらに向き直り、すぐに「ワシ、膵がんやった」と言った。 私は一瞬両手で顔を隠したが、私が泣いたらいけないので、すぐに彼の( 親指を握る癖がある)膝に置かれた拳を、上から覆うように両手で握って、ずっと下を向いていた。 講演最後の「妻への感謝」はこれだったか…と合点がいった。 彼は「ごめん、でも絶対負けない。治るから」と、いつも通りの穏やかさで明るく言ってくれた。 私は 「うん、そうだね」と無理矢理 笑って答えた。

長生きして

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  人は皆、生まれた時から死に向かっていると言うけれど、 那須君は死について、あるいは自分の死後について、ほとんど何も話さなかった。 ただ、まったく元気な頃に、親のお葬式やお墓について、二人で話していた時に、自分だったらどうして欲しい?と聞いてみたことがあった。 彼は「本当に、どうこうしたいということはない。残った人が好きにすれば良い」と即答していた。 「火事になったらこれだけ持って逃げる」と言って、常々大事にしていたギターですら、誰かに託したいという願望を持っていないようだった。   自分が物を大事にすることと、その物をいつか自分以外の人に託すこと(を考えること)は、 全く別のことなのだな、と思った。 那須君にとって大事なのは「今」であって、 先のこと、ましてや自分が居ない死後のことまで考えることは無駄、 残された人を縛って迷惑をかけたくない、とも言っていた。   そして、こんな会話もした。 美「どっちが長生きすると思う?」 耕「ワシは絶対長生きする!」 美「那須家は長生き筋やもんな。でも一人になったら寂しいで?」 耕「長生きしたら、嘘つきまくるんや!ふっふっふっ♪」  

どっと疲れた夜に聴くのは

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耕介は日々、様々な音楽を聴いていた。 トイレとお風呂場以外では、朝起きた時から 就寝時まで 必ず音楽をかけていた。   耕介はすぐに寝付くので、音楽をわざわざかけなくても…と密かに思っていたけれど、 毎晩、じっくり選んだ音楽を聴きながら寝ていた。 静かな曲ばかりではなく、よくこれで寝られるな、という音楽もあった。     そんなふうに長年過ごして気がついたこと。   耕介が言葉を尽くして説明しても、相手に通じなかったり、 なんでこの仕事をワシがするねん、という徒労感があったり、   そんな、どうしようもなく気持ちが疲れている夜は、 必ずと言って良いほど、『憂歌団』をかけていた。 高校時代によく憂歌団のライブに行っていたらしい。   憂歌団は、ライブの途中にメンバーがトイレに行って、 それをファンが野次るなど、 力の入らなさ、ファンとの近さが堪らないバンド。 長男の耕介には、「アニキ達の悪ふざけ」が痛快だったのだろう。     疲れている夜は、そんなアニキ達の曲が流れる。 あのダミ声で、♪いやんなった~♪と聞こえてくると (あぁ、今日はクタクタなんだな…)と私にも分かる。   そういえば、イヤイヤ頑張った仕事がようやく終わって、 もうどうでも良くなった夜にも憂歌団を聴いていた。   年に3回くらいか。 がんばるモードから、ふざけるモードに切り替わる スイッチみたいな音楽だったのかな、と思う。

長っ尻

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高校の恩師の八木先生は、授業が終わったらすぐ学校を出る。 帰り道、立ち飲み屋で昼間からお酒を飲み始めて、でも飲むだけ飲んだら 明るいうちに さっと帰る。 みんなで忘年会をしても、自分のペースで飲むだけ飲んで、宴たけなわというところで「もう帰ります」と席を立たれるので、みんな呆気にとられて、寂しく思いながらもお見送りをして、八木先生抜きで呑み続ける。 潔さがとにかくカッコイイのだが、その立ち去り方だけは、那須君 も真似できなかった。どちらかというと那須君はお尻が長い。最後までみんなと一緒に居たいタイプ。 摂南大学に就職し、ゼミ生と飲みにいく機会に、私が 「学生にお金を渡して、途中で帰ってくるんやで!」と送り出しても、 最後まで学生と話していたいのか、「あいつらだけでは、よう喋らんのや」とか言い訳しながら、毎回遅く帰ってきていた。 翌朝、私が「昨日、那須君1人で延々としゃべっていたんと違う?」と聞くと、「そんなことない。ワシは聞き役や」 「あいつら、焼肉屋に行って、ソーセージ注文しよるんや!信じられへん!」と、さも愉快そうに腹を立てていた。

『麻雀はダメ』

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高校時代の恩師、八木先生が那須君に言った。 「パチンコはいいけど、麻雀はダメ」 八木先生は授業のない時に、ふらりとパチンコ屋に行き、 教職員室の机の引き出しには、景品のお菓子がいつも入っていた。 お気に入りの生徒には、そのお菓子をこっそりくれたりする。 高校を卒業して、先生と一緒に飲みに行けるようになった時も、 帰りに「パチンコ屋に寄っていく!那須もあーちゃんもやるように!」と連れて行かれたことがあった。 百円で玉を買い、一瞬で無くなる。 それでよし、という顔で、先生はさっと店を出る。 では、八木先生も大学時代に随分やっていたという麻雀が、なぜダメなのか? 麻雀は人と一緒にするから、自分がやめたくなっても やめられない。 だからするな、と説明された。 那須君は音楽が好きで、新聞配達のお金を貯めて買ったギターをずっと弾いていた。でもバンドを組むことは無かった。 運動も、小学生の頃は野球に夢中で、中学では卓球部。大学の授業でやったサッカーも、位置取りが上手くて敵に嫌がられていたらしい。ボーリングやスキーも上手かった。 でもずっと続けていたのは、1人でジョギング。 私が「バンドをやったり、研究仲間とテニスをやったりすればいいのに!」と言うと、 「八木先生の教えを守っているんや」と笑っていた。

ブライアンの言葉とお誘い

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2019年秋に がんの再発があり、抗がん剤の種類が変わった。身体が一気に痩せ、頭髪も抜けていった。 それでも那須君は塞ぐでもなく、本当にいつも通りに穏やかに過ごしていた。   そんな時、たまたまアメリカのブライアン・タマナハ氏から「調子はどうだ?」というメールが来た。自分の状況を率直に伝えたやりとりの末に、おそらく心配したブライアンから国際電話をもらって、那須君は明るく話をしていた。   その電話を切ってすぐ、珍しく高揚した様子で私のところに来て言うには、 「ブライアンは『痩せても、毛が抜けても、コウスケはカッコイイよ!』と言ってくれた~」ということだった。本当に嬉しそうだった。 きっと、那須君にとって一番かけて欲しかった言葉を、ブライアンは言ってくれたのだ。   それからも苦しい過酷な治療を受け続け、いよいよ次の春にはラコとの暮らしが始まるという2019年の年末だったかに、ブライアンがまた連絡をくれた。 ブライアン自身も二人の娘を育てているので、「子どもが来たら、二人だけの時間は取れなくなる。絶対、今のうちに旅行をしたほうがいい!」とのことだった。 そして「カウアイ島にある実家に泊まれば良い。両親は亡くなって空いているから」と誘ってくれた。 しかし しばらくして、「実家は改築工事がはかどらず、春休みに泊まるのは無理になった」と連絡があった。那須君が「そうか、仕方がないね。カウアイでどこに泊まれば良いかな?」と返事をすると、またしばらくしてから、「カウアイの妹の家に泊まれば良いよ」とメールが来た。 てっきりホテルを教えてくれるかと思っていたので、驚いて恐縮したが、数年前にオアフ島でブライアン一家と食事をした際に会っていた妹さんから、 すぐにフレンドリーなメールが来て、ウェルカムな雰囲気に甘えることにした。 年明けからは、ラコとの同居に向けて頻繁に交流を重ねていたので、切れていたパスポートの更新や、国際運転免許証の申請に、ラコを連れて行ったりした。 飛行機のチケットを急いで取り、コロナの足音が大きくなる中、ガラガラに空いた関空からハワイへ逃げるように出発したのだった。 向こうに着いて数日したら、トランプ大統領が「もうハワイには観光客を受け入れない!」と宣言したニュースが流れた。 日本人を見かけない、カウアイ島の空気は彼に合っていたのか、 「ここに居たら治る気がする。ず